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新しいスポーツの学校:とある若きサッカー選手について(若林恵)

音楽とは直接関係ないのだけれども、スポーツをアナロジーとして「音楽」はきっと多くを学ぶことができる。「サッカーを通じたコミュニティデザイン」について思考をめぐらせていた、ある日本人大学生は、卒業後、単身スペインへと向かい、人知れず5部リーグの小さなチームと選手契約を結んだ。〈新しい音楽の学校〉の企画者・若林恵が、ひょんなきっかけで知り合ったその青年とサッカーの未来について思ったこと。

シノハラ・リキくんという人がいる。何度かしか会ったことはない。自分が登壇したイベントなどにお客さんとして遊びに来てくれたりした人で、イベント後に名刺交換したら、名刺の肩書きのところに某大学のサッカー部と書いてあったと記憶する。体育会に所属するようなそんな青年が自分が出るようなイベントにわざわざ足を運んでくれるなんて珍しいなと思い、立ち話ついでに聞くと、これからのスポーツの社会的役割について興味があるのだという。卒論もその線から「サッカーから実現するコミュニティデザイン」というテーマで構想していると教えてくれた。そんな縁から、彼の卒論に少しばかり協力することとなり、サッカーはまったく専門外なれど、ヒアリングの対象として、これからのコミュニティのあり方と、そこでスポーツが果たしうる役割のようなことをお話しした

自分は熱心なスポーツ観戦者ではないけれど、都市開発やソーシャルデベロップメントといった文脈におけるスポーツの今後のありかたにはとても興味をもっていて、『WIRED』日本版というメディアに携わっていたときに、ドイツの2部リーグのチームや、難民ばかりで構成された11部リーグのチームについて、記事をつくったりしたことがある。テックイノベーションを主題としたメディアで、なんでこんな記事が?と訝しまれた読者も少なからずいたとも思うけれど、テックやビジネスのイノベーションは社会や文化のイノベーションにならなくてはなんの意味もないという自分なりのドグマからすると、こうした記事のほうが自分としてははるかに重要で、なにを隠そうこれらの記事は自分のなかでもとりわけ気に入っていて、思い入れの強いものであったりする。

〈Real World〉という旅のプログラムでベルリンを訪ねた際に、その2部リーグのチーム〈ウニオン・ベルリン〉のホームグラウンドを訪ねたのは、楽しい思い出となっている。毎週週末になると、地元のファンがこぞって集まり、地元チームの勝利を祈るための空間は、さながら教会のようだと、上記の記事のなかで筆者の高杉桂馬は書いているが、決して大きくはないスタジアムの人懐こさと、ある種の厳かさには、たしかにそんな気配が漂っていた。そこは商業空間ではなく、町のアイデンティティのひとつの柱をなす、立派な文化空間だった。

シノハラくんとは、そんな体験も土台にしながら、つらつらと四方山話をしたのだが、そんな話もひとしきり終えると、こんどは彼のキャリアの話となった。卒業後はどうするの?と聞くと、プレイヤーとしてサッカーを続けたいんですよね、と教えてくれたのだが、自分はそれをちょっと意外なことばとして聞いた。

彼のサッカーの腕(というか脚?)のほどは、よくしらないし、検索などをしてみたところ、正直生き馬の目を抜くサッカーの世界で身を立てていくに足る実力と言えるのかどうか、疑念は否めなかった。そもそもそれほど有望ならすでに名前をチラとでも見聞きしてそうなものだ。加えてスポーツのこれからのありようについて折り目正しい理解と認識をもつアタマのいい青年だ。大学までの間で得た体験を競技文化全体を支えていく仕事につくほうが、プレイヤーとして、ことばは悪いけれど無駄にあがくよりはいいのではないかと思ってしまったのだ。そんなお節介なことを口からに出してわざわざ言ったかどうかは、定かではないけれど、思ったことは黙っておれないタイプではあるので、おそらく言ったのだろう。いずれにせよ、彼がプレイヤーを続けたい意向を固く持っていたことは伺いしることができた。

件名:「スペインでの近況報告」

それが去年のことで、その後、シノハラくんがどうしてるのか、ほとんど思い起こすこともなく日々を過ごしていたのだが、突然、昨日、そのシノハラくんからメールが届いた。表題は「スペインでの近況報告」というもので、スペインにシノハラなんて知り合いいたかな?と訝しみながらメールを開けると、こんな文面が躍っていた。

「卒業後はスペインで活動していましたが、ようやく所属するクラブが決まりました!」

あーそういえば、スペインに行くって言ってたっけ。思い出しながら読み進めていくと、バレンシアにある、5部リーグのチームで〈CD Buñol〉という田舎町のチームと晴れて契約を結ぶことができたこと、チームは開幕3連勝でリーグ首位にいることなどが綴られ、メールの最後には、契約記者会見の様子を報じるローカルメディアの記事のリンクが添付されていた。

ローカルメディアのツイート。記事には「サムライ」の文字が踊る。(引用:https://golsmedia.com/un-samurai-desembarca-en-el-cd-bunol/ )

そのメールを見て、まず思ったのは、彼はなんて素晴らしい体験を自ら選び取ったのだろうということだった。そして、同時に自分の浅はかさを知った。自分は、やはりどこかで勝手に、「トップになれないなら、早くに夢は諦めたほうがいい」と思っていたに違いないのだ。もちろんシノハラくんのプロキャリアははじまったばかりで、アンダードッグからトップ選手にまで上り詰めた長友選手のような例を見れば、そこには洋々たる可能性が拓けていないわけではないけれど、かりにそうではなかったとしても、サッカー文化の未来をコミュニティとの関係性において見ようとしていたシノハラくんのような人が、田舎町の5部リーグのチームに参加し、その未知なる小宇宙をフィールドのなかから眺め、体感することができるということは、言い知れぬ価値があることのように思えた。卒論の内容と、彼がプレイヤーとして活動を続けることのこだわりは、こんなふうにつながっていたのか。自分の浅慮を恥じた。

シノハラくんには選手としておおいに活躍してもらいたいとも思うけれど、同時に彼には、下部リーグの選手たちのみならず、それをサポートする裏方さんたちであったり、サポーターのコミュニティであったりが、どんな志やマインドをもって、その地域の文化をつくりあげているのか、彼らの一挙手一投足のすべてを学んでほしいと思う。そして、いずれ、それらの学びを日本に持ち帰って、ぜひ共有してもらいたいと思う。

オルタナティブな「プレイヤー」の意味

世界で活躍する日本人と言うとメディアはトップリーグに破格の契約金で移籍したトップ中のトップにばかり注目する。もちろん、それはそれで意味のあることだし、彼らの活躍は、サッカーに大きな夢を見ることが許された子どもたちを鼓舞することだろう。けれども、そうした夢は、時が経ち、こどもが成長をしていくなかで、やがてはしぼんでいくものだ。高校生になってまで、まだスペインやイタリアやドイツのトップリーグでプレーする夢を抱き続けられるのは、ほんの一握りのスタープレイヤーしかいないはずだ。

そんななかで、シノハラくんのような身の振り方は、それとは別の夢や希望を授けてくれるのではないかと思う。頂点ではないところから、プロサッカー文化の懐の深さや豊かさ、その意義や役割に触れることには、おそらく、トップ選手がトップ選手として触れることになる文化とはまったく異なる価値があるはずで、むしろトップリーグが極端にマネードリブンになってしまっている状況にあってはなおさら、その対極にあるローカリズムのなかに身を置くことは、今後のスポーツ文化のあり方を考えていく上で、いっそう重要なものとなっていくはずだ。シノハラくんのキャリアが今後どうなっていくのかは神のみぞ知るだけれども、選手生命を終えたあとも、彼の人生は、可能性に満ち満ちていると思う。ヨーロッパのローカルリーグに深々と身を浸すことになる彼が見聞きし味わうことになる体験は、今後の日本のサッカー文化にとっても貴重な体験となるはずだ。

5部リーグから這い上がってトップリーグまで登りつめたというようなシンデレラストーリーは、それはそれで社会にとって重要なストーリーだけれども、そうでなければストーリーが生まれない、というわけでは決してない。シノハラくんが、得ることになるすべてが、本人にとっても来たるべき社会にとっても宝となるものだと思う。シノハラくんに限らず、彼と似たような情熱と問題意識をもって海外で勇躍する者たちのストーリーは、決してマスメディア向きのストーリーではないけれど、こうやって草の根に近いところからサッカーを眺めてきた彼らの知見は、たとえばチームの運営や、選手の教育や、地域の振興といった観点から、きっと長く役に立つものだろうし、そうした知見ができるだけ役に立てられていくことによってスポーツは、文化としてより豊かなものにもなっていくのだろう。

サッカーに限らず、さまざまな領域で、シノハラくんのようなポジションで世界のいまを吸収している若者はたくさんいる。トップになることを目指すゲームだからといって、トップまでたどり着けなかった者がすべて敗残者として生きなくてはならないわけではない。それらひとつひとつのローカルな体験もまた、未来に向けた貴重な資産だ。そして、そのひとつひとつが、たとえ小さくても、新しくたしかな希望を後進に授けることにもなる。彼がこれからするであろう未知の体験に、憧れ、羨ましいと感じるのは、自分だけではないはずだ。

彼のような若者は、もちろんこれまでも、そしていまもたくさんいるにちがいない。けれども、少なくとも自分は、彼ら・彼女らのそうしたストーリーを「成功をめぐる物語」としてしか消費していなかったように思う。それは、あまりにもったいないことだ。小さな田舎町の小さなスタジアムは、学びの場でもあって、その卒業生たちに、わたしたちは、ほんとうはもっと多くを学ぶことができる。

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写真:間部百合
文:若林恵